⇒顕彰会会報寄稿
   寄稿 
神辺界隈と五十嵐浜藻
       
―女流俳人の西国俳諧行脚―                
 著者 塚本照美   
 五十嵐濱藻は武州大谷村(現東京都町田市南大谷)の江戸後期における女流俳人である。濱藻は父梅夫と共に文化三年から西国の俳諧行脚にでかけ、山陽路に赴き,菅茶山にあっているのである。  五十嵐濱藻(波間藻とも書く)。名は茂代。安永元年(一七七二))に武州大谷村(現、町田市)に、五十嵐伝兵衛孝則(通称文六。俳名は桑園梅夫)と高座郡座間村栗原村(現座間市)大矢善兵衛女(智専院水月慈音大姉)との間に生まれた。

 濱藻が生まれた大谷村は、幕末に至るまで旗本久留忠兵衛正吉の知行村であった。五十嵐家はその旗本領の名主を代々勤め、近在に知られた素封家であった。梅夫の父も祇室と号する加舎白雄の門人で、梅夫も白雄に入門している
  
 濱藻もその影響を受け、俳諧を趣味とした。濱藻は寛政年間に義矩(九代目、傳兵衛)を婿に迎えたが、父の仕事からか、江戸に出ることが多かった。

 濱藻の初出は寛政十一年(一七九九)成美編の柴居追善集『くらま畚』である、そこには「江戸少女はまも」として「秋風や手習いの墨とくかはく」の句が見える。また、下総の鶴老が浜藻を訪ねた時「うぐひすや田舎巡りのおちゃつぴい」と詠んだ句や「訪はまも 門口や先づ愛敬のこぼれ梅」と小林一茶が『朝黄空』に詠んだ句もあり、濱藻は、小林一茶や夏目成美、井上士朗、鈴木道彦らと交流し、俳諧を深めていった。

 文化三年(一八〇六年)濱藻三十三歳の時、父梅夫と西国方面へ足かけ五年の旅に出かけた 西国行脚にでた梅夫と濱藻の旅日記は見つかっていない。しかし五年間にも及ぶ行脚の足取りや様子は、二人が上梓した『草神楽』(梅夫編)『八重山吹』(濱藻編)(注①)の中から伺うことができる。そこで『八重山吹』を通して濱藻と神辺界隈を探ることにする。 

 文化三年濱藻・梅夫は江戸を発った。その時の様子は信濃の俳人・成沢雲帯宛ての書簡(『書簡による近世後期の俳諧研究ー俳人の手紙・正続編注解』矢羽勝幸編)から伺うことができる。
  尚/\春ハ松のうちにも出立いたし度候。光琳風画家大阪芳帰郷にて大かた大坂迄

  同道いたし候と奉存候。(中略)上田へおどり四五番も残し置申したく候。藪原へ一

  二夜、夫より松本にすこし滞留いたし度候。松本ハ余り/\応じ方澹と御座なく候

  間□広餬噂被下たく候 大阪江戸堀五丁目近江屋新作かた迄、御文通被下候得バ相

  廻し申候。亦尾州士朗師迄。右両所之内へねがひ上候以上。

  雲帯先生                             

 松の内に江戸を発ちたいこと、大坂迄は帰郷する絵師の中村芳仲と一緒であること。帰路は中山道経由で、上田の雲帯の所によること。さらに士朗に連絡を頼むことや旅先での文音取次所まで書かれている書簡である。 

 それから半年、最初の興行地は安芸御手洗で、樗堂との三吟歌仙である。この興行は『八重山吹』にはないが、『草神楽』には

  文化丙寅六月廿六日 安芸御手洗南湖山に二畳庵をあるじとして

   松風の中を行也夏の月      波間藻

   何もおもはず眠る青鷺      樗堂

   客ぶりもあろじもかはる庵にて  梅夫

 とあり、濱藻を主客として、樗堂、さら梅夫に堂々の付け句が記録されている。

 樗堂宅から梅夫・濱藻は九州小倉へ渡り、九月十一には長崎に着いた。長崎の久松菊也邸では佐太女との歌仙を巻いたことが『八重山吹』には記載されている。
 そこから豊前・筑後と行脚し、翌文化四年一月には長崎の氷見峠を超えて赤間が関、筑前山鹿岬へと歩を進めている。いよいよ六月四日には安芸の国に入り備後庄原、天野屋亭で天野屋伊藤家の妻であるきせ女の興行である。更に十七日には備後上下の里,負荷元輔亭でのはま女、きせ女との興行。はま女、きせ女はともに詳細は不詳だが、「興行主元浦氏と関係ある人であり、文化四年の『上下の里しぐれ会入集連中一覧』に二人の入集句がある。

 七月二十六日には備中笠岡の伏見屋伊八亭で智桂との付合。伏見屋は肝煎橋野伊八、俳号は李山。海運関係の仕事を盛業にしていた。『笠岡市談』第二十一号の「笠岡の屋号研究」の中で著書である広沢澄朗氏は「智桂は伊八の妻。笠岡の俳諧の中心をなした大戸文里の一回忌追善集『こころのしみつ』には智桂の句「やまびこと啼かはしけりかんこ鳥」が入集している。」と述べている。

 八月二十日には再び伏見屋次兵衛亭で智桂との両吟。

 翌二十一日、奇峰亭では遊女との両吟。奇峰は黒田四朗三郎、愷弟。俳号奇峰。『草神楽』発句部には奇峰は三句入集している。遊女はその妻。文化五年夏、京の俳人柏原互全が笠岡に来遊し、俳句指導を行った際の連中記録に「うらおもてなき青柳の風情かな ゆふ」『笠岡史談』第十八号とある。

 翌八月二十二日、伏見屋次兵衛亭で其川と両吟。伏見屋次兵衛は不明。『笠岡市談』第十八号「笠岡の俳句江戸期一」の中で広沢澄郎氏は「文化五年広島の多賀庵玄蛙が笠岡へきて、古音,斗外,らと交遊している。文化六年(一八○九)七月二十六日、江戸の五十嵐波間藻女が九州からの帰途、笠岡伏見屋伊八亭(智桂女)を訪い、笠岡の女流俳人、其川・琴姿・遊女・惠安・木末らと連句を作っている。」とある。又,智桂については同書で「伏見屋次兵衛(其川)」とあり、次兵衛の妻であるらしいが詳細は不明友記載されている。

 八月二十八日、夷屋儀兵衛亭では恵安と両吟。夷屋儀兵衛は大玄町の商家で詳細は不明。恵安については『笠岡史談第十八号』に「夷屋儀兵衛(恵安)」とある。

 九月一日は古音亭。古音は『万家人名録』に「備中笠岡人、俗称綿屋次郎三郎」とある。江戸後期笠岡俳壇の中心をなした大戸文里が綿屋家へ養子に入り,菰口次郎三郎と名乗り、笠岡村宿老格肝煎を勤めた。その次郎三郎の俳号が古音。歌仙を巻いた琴姿は「古音の妻。」と「江戸期の笠岡の俳句」(『笠岡史談 第三号』。)の中で、広沢澄郎氏は述べている。

 九月九日、桃二亭で木末と両吟。桃二は名は靏太瓦映、俳号桃二。桃二は大戸文里一回忌追全集『心のしみつ』(文化四年・一八○七)に入集。木末は「笠岡の俳句江戸期Ⅰ」(『笠岡史談 第十八号』)に桃二の妻であることが記載されている。又同書の短冊には「八十五才」と記載され、濱藻と歌仙を巻いた時にはすでに高齢であったようだ。

 笠岡には三か月近く滞在した。この後、備前和気郡北方村で、儒者武元北林と出会い、北林が父娘に贈った次の漢詩二編が『北林遺稿 上』(注②)に残されている。      

 文化五年(一八○八)一月・小豆島へ。讃岐小豆島土庄の笠井氏のもとで雛雄と両吟。笠井氏、名は久躬、三郎左衛門。俳号は貞固。代々大庄屋を勤めた家。香川県の『内海町史』には「笠井氏妻雛雄」とある。又、同書に「江戸の濱藻梅夫夫妻が文化四年末来島し両吟」とある。

 六月に讃岐小豆島橘の里、橘中亭で惠智と両吟歌仙。橘中は『内海町史』に「大庄屋の菅茂治郎の後見役を兼務していた広瀬員笛こと作大夫利則(中略)これが橘中と号し、員笛とも云」と記されている。また、「橘中は学問上の雅号」で、「俳人としては員笛』を号していたとある。惠智は『香川県俳諧史』に「広瀬利則の妻」と記されている。 

 この小豆島への往来の中に管茶山との交流があった。菅茶山、六十一歳の文化五年(一八○六)七月十一日の『菅家往問録』である。そこには次の記載がある。   

 丁卯七月十一日   江戸大伝馬町三丁目新道

            桑園梅夫
            波間藻
                  五十嵐文六                             (『広島県史・近世資料編Ⅵ』 広島県編集 昭和五十一年三月二日刊)

 この時、濱藻は菅茶山から詩を頂いている。

  女俳諧師濱藻索詩  菅茶山

       弓鞋不畏道程長

       酔月吟花向遠方

       彤管到頭栽綿綉

       何如歸作嫁衣装   『黄葉夕陽村舎詩後編』

 江戸で夏目成美らとの交流がったとはいえ、武州の女流俳人が西国への行脚にでかけ、その中での菅茶山との交流。どんなにか貴重な出会いとなったことだろう。

  浜藻・梅夫の西国への旅は文化三年から八年までの長きに渡り、長崎・四国・浪速・京・尾張・伊勢と広範囲後を訪れた。その間、各地で吟詠し、歌仙を巻いた。特に『八重山吹』では、天地二冊の十八興行中、半数が備前・備中でのことであり、文化四年六月から小豆島へ渡り戻ってきてからの文化五年七月までの二年にも及ぶ期間この地にいたことになる。

 また、この西国行脚では『草神楽』に掲載されているものとも合わせると、一座した俳人は延べ六百余人に上り、特に安芸御手洗の樗堂、長崎の菊也・京の蒼虬・尾張の士朗・近江の千影・伊勢の椿堂・さらに書肆の長斎・其成等、当時の俳壇・出版会における重鎮ともいえる俳人との交流も数多いものであった。

 だがそればかりではなかった。浜藻らは、旅の中から多くの情報を入手し、人脈を駆使して「正風俳諧名家角力組」・「新板諸国はいかいし大角力ばん付」・「正風道場録」・「南澹部州大日本国俳諧四海兄弟合」の番付に,さらに『万家人名録』(注③)にも掲出した。

 西国への旅を終えた濱藻父子は大谷村に戻った。文政三年(一八二十)父梅夫が六十四歳で逝去し、弘化五年(一八四八)二月十四日 濱藻は七十七歳で逝去した。その墓碑には、「黄香院 巌濱藻大姉」とある。現在は五十嵐家の子孫に継続され、濱藻関係の資料は町田市の自由民権資料館で保管されている。

 

  注①:梅夫の『草神楽』は半紙本六冊、文化八年刊。井上士朗の序。興行場所や興行日の不明な歌仙も二十六巻ほどあるが、歌仙七十二、半歌仙三十五を天・禮・楽・射・御・発句集の六冊に収め、京烏丸の俳諧書肆勝田善助から版行した。

 娘濱藻の『八重山吹』は女性ばかりの俳諧連句集で、半紙本二冊。序は美松の志宇。歌仙十五、半歌仙三を天・地の二冊に収め、文化六年頃にやはり京の書肆勝田善助から上版している。

 注② :  贈梅夫

    千里勝遊佳句多/吟成毎付雪見歌/

    相逢相別怱怱裏/山雨江雲奈恨何

      贈波間藻 

    梅夫女善俳諧 将赴小豆洲

    瑜伽山上偶仙娥/聞得樽前白雲歌

    所恨人間難久接/滄洲一去阻烟波

 
 注③ :「つゆよりもさきにのほるやけふの月  東都 五十嵐梅夫女

 『万家人名録』に掲載されている賛句である


    東京都八王子市めじろ台  塚本照美

 菅家往問録 文化3年記入例 (広島県立博物館資料から)